1980年代
1979年から月曜日のニッポン放送のオールナイトニッポン・人気ラジオ番組、『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)での軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集め、1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めた。
1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで彼女にとって2度目の1位を獲得し、翌1982年度の年間チャートでも6位を記録。また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年度のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。
しかしながらそれ以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。当時中島は、甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。
また、1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては後藤次利との共作で工藤静香の「MU・GO、ん・・・色っぽい」「黄砂に吹かれて」などを作詞し、大ヒットさせた。
そんな「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイ ガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という彼は適任らしく、それ以降現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。また1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワーフともいえる舞台となり、1998年にいったん終了したあともたびたび不定期で上演されている。
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